成為印尼建國英雄的台灣人

李柏青umar Hartono ,1922出生於台灣台南州(2013十月十六日過世)。
李柏青從小學接受日文教育,與父母之間用台語溝通,同學及兄弟姊妹間則全部用日語交談。
隨著日本內地延伸政策的施行,李家後來改日本姓氏「宮原」,李柏青改名「宮原永治」,全家並獲頒為模範的「國語家庭」。
太平洋戰爭爆發後,宮原永治以志願兵身份加入帝國陸軍,轉戰菲律賓、緬甸以及印尼、、等地。
1945年八月,二次世界大戰結束,但宮原永治並沒有因此向聯軍投降。宮原和其他九百多名日軍同袍選擇加入印尼游擊隊,向荷蘭的殖民政府宣戰。
宮原的九百多位同袍中,有半數為印尼的獨立戰爭犧牲。
印尼建國後,倖存的日本游擊隊員,包括宮原在內,有三百多人選擇留在印尼當地,謝絕回返日本。為感謝日籍游擊隊員的貢獻,印尼政府將宮原等人列為正式的建國英雄。
宮原永治日後回憶,當年他所以沒有選擇投降,主要的原因有二。其一為,他曾經在緬甸與支那政府軍交手,宮原自忖,以他的日本軍人身份,回到台灣後,支那政府絕對不會善罷干休,所以他不願意冒險被遣返台灣。
第二個原因則是,宮原要繼續為自己的理想而戰。宮原當初之所以加入大東亞戰爭,就是因為認同日本政府所提出的「亞洲殖民地解放」的理想。雖然後來日本戰敗,但自己如果還有機會用另一種身份(印尼游擊隊)繼續為亞洲民族解放而奮鬥的話,他仍然不願意輕易放棄。
宮原曾在1974年回返台灣一次。當時台灣仍處在白色恐怖的氣氛中,宮原在台灣與父母匆匆見過一面後,隨即在支那國民黨的監視下離境出國。
被迫與台灣切斷臍帶後,宮原認同自己為「日裔印尼人」。
宮原在印尼當地,努力參與日僑社區的活動,並熱心於第二代與第三代日裔印尼人的日語教育工作。
宮原與印尼女子結婚,取得印尼國籍,並育有三名女兒。
2005年八月十七日,宮原永治以建國英雄的身份獲邀出席印尼建國六十週年慶典。
2009年四月,日本政府頒贈宮原永治「旭日單光勳章」,感謝宮原多年來對於印尼日本僑界的熱心奉獻!

79年に情報交換と助け合いを目的に107人の元日本兵で「福祉友の会」を結成した。

2005年、インドネシア建国六十周年記念式典においてユドヨノ大統領から建国の英雄勲章を授与されている。


(*1)日本軍政下インドネシアで設置されたインドネシア人による初の軍事組織「祖国防衛義勇軍(PETA)」を指す。PETA隊員は最終的に三万八千名。独立戦争の主力となり、その後創設されるインドネシア国軍に多くの人材を輩出した。インドネシア共和国第二代大統領スハルトはPETA出身者となる。
(*2)1945年から1949年までのインドネシア独立戦争で、八十万人といわれるインドネシア人が犠牲となっている。そして台湾と同じくインドネシアは東南アジア有数の親日国家であり、世界最大のイスラム教国家である。

こうしたインドネシア独立戦争日本人義勇兵のひとりで、オランダ軍との戦闘で負傷したラフマットこと小野 盛(おの しげる)氏(九十五歳)はその時の事を次のように語っている。
「独立戦争が始まって日本軍の応援が欲しいというインドネシアの人達が大勢やって来た。日本軍から軍事教練の基礎は受けたが(*1)、実践の経験がない。経験豊富なあなた方に是非にというのです。それで私も勧誘され、インドネシア独立勢力に加わった」



附圖:宮原永治與日本首相安倍晉三

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