二度と軍属になられたお方

昨日(2019.3.18)午後、東港郡新園庄に住んでいる陳可水さんからたくさんの話しを聞かされまあした。 東港飛行艇基地の話し、シンガポール戦時中の話し、海南島で終戦を迎えた話し。 東港飛行艇基地の建設に携わった人と合うのは初めて、二度と軍属になって海外へ赴いたお方と合うのも初めて。 大正10年生まれの陳さんは新園公学校烏龍分教場のニ回目の卒業生。在学中は村方という先生に十分かわいがられた。 東港で山下秋充という日本人の店で働いて、東港飛行隊基地の浚渫(昭和15)に携わった人々を相手に商売もした。 基地の建設中に台風が来て、自分が乗り遅れた筏が工場で働く人々とともに海に流され、たくさんの人が犠牲されたことを目の当たりした。それが初めて死との直面の経験だった。 1941年、太平洋戦争が勃発。陳さんも軍属として志願し、シンガポールへ赴いた。シンガポールでは船着きで働く、おもな運搬の仕事をしてた。 シンガポールで一年働いて高雄へ戻り(昭和18)、若いうちにもっと積極に働きたいという考えて、もう一度軍属になることを決意、そして今度は海南島の飛行場へ派遣されました。 海南島で終戦を迎え、日本軍の順調な引き揚げにたいして、海南島(榆林)にいた台湾人は兵舎から放り出され、誰にも相手にされず、匪賊に命を脅かされて、飢えを耐えて、仮病までつかてやっと中国輸送船に乗り込むことができました。 ところで、中国輸送船の船員たちは海賊とあまり変わらない、海南島から基隆の航海で、たくさんの所持品が中国人船員に奪われ、茶碗や箸さえ残らず持っていかれた。 台湾に帰ってき時、知り合いの日本人は皆引き揚げされました。


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