殘留緬甸的日本兵鄭武定(河野利彥)

鄭 武定
大正4年(1915年)生 台北県中和市
林1611部隊 陸軍工兵隊 ビルマ

1980年、39年ぶりに帰国


鄭武定(右)と出征中に生まれ39年目に対面
した長男・鄭金太郎(その後、鄭再成と改名)

昭和17年(1942年)に招集されて、戦地はビルマルート雲南龍陵。戦況が悪くなって、工兵隊長は脱出命令を出して自殺した。わたしはひとり山中に逃げたが、爆撃で倒れた家の下敷きになって背中を打撲して意識を失いました。


その時ビルマの華僑に助けられてバンコクの病院に入院させてもらった。6ヵ月入院して、翌年、ビルマのもとの隊へ戻ろうと日本軍を捜しにいったのだが日本兵の姿は見えなかった。


その後菓子の製造をしながら暮らしていたが、43歳の時に友人華僑の勧めで結婚しました。こうして34年間高麗貢山で暮らす間に7人の子どもができました。


終戦は宣伝ビラで知りましたが、台湾人日本兵とわかると殺されるので、そのまま福建人で通しました。


1979年に、台湾から来た康さんという娘さんを家に泊めてあげたのだが、その時わたしの事情を知って、帰国後台湾政府に調査するよう交渉してくれた。


康さんのお父さんがわたしの本籍地の役所をあたってくれたがわからない。町でわたしの写真を見せた相手の老人がたまたま前の結婚の仲人で、出征後に男の子が生まれていたことがわかったのです。


出征した時妻は妊娠3ヵ月でした。男が生まれたら、金太郎と命名するよういい残しておいたのが妻はそのとおりにしていた。


その妻は15年前に他界、ビルマの妻も同じ頃亡くなった。台湾に息子がいることがわかって、故郷へ帰りたかった。


39年ぶりに台湾に帰った時は浦島太郎でした。帰国後は苦労したが、台湾政府が家を買ってくれたり、生活を援助してくれた。それにひきかえ日本政府は無責任だ。


天皇の赤子といって連れて行ったのにいまは慰問の言葉もない。日本政府は31年目に出てきた中村輝夫にはお金を払ったのに〔*註〕、わたしには全く知らん顔だ。


*註 日本政府は中村輝夫に対して帰還手当3万円と未払い給与3万8,279円を公式に支払った。このほかに閣僚から特別な見舞金200万円、ほかにも数百万円の義援金が渡されている。

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